死産から1年が経ちました
※あまり配慮もせず思いついたままに書いたので、不快に思う表現もあるかもしれません。ご注意ください。
2019年12月21日、死産からちょうど丸1年。
今回この日に合わせて記事をあげたくて、初めて予約投稿もしてみた。
息子が産まれたのは16:14。
予約は30分区切りだったので、16:00に設定した。
この1年、長かったようなあっという間だったような・・・。
1年前、妊娠継続を諦める決断をしたときは、泣いて泣いて。
大人になっても泣いてしまう機会はたくさんあるけど、小さいこどもみたいに、声をあげて泣いたほどだった。
「妊娠できることを教えてくれた」とか「私たちのところにきてくれてありがとう」とか
きれいで前向きな言葉もこれまでたくさん見たけれど、そんな風に思えるほど強い人間でもなくて。
妊娠なんてしなければよかった、不妊治療なんてしなければよかった、悲しいを通り越してもう馬鹿みたいだ、と後悔の念もいっぱいで。
まさに自分を呪うということはこういうことなんだとすら思った。
死産後は話を聞いてほしいのに、うまく話せない。
女性は共感でコミュニケーションをとっていくことも多いし、経験したことがある人のほうが少ない出来事を、話したところで気を遣わせるんじゃないのか。
そもそも反応に困るようなことを人に話すことのほうが間違いで、悲劇のヒロイン気取りなんじゃないのかとか、自分の中でもうまく消化できていなかった。
精神的にもなんだか病み気味で、「死にたい」だと親もまだ生きているし、親や夫を悲しませるのはダメだ。(なぜかここら辺は冷静)
「消えていなくなりたい」、わたしは最初からこの世に存在していなかったことにしてほしいと何度も思っていた。
死産ではなく人工死産だった、という事実にも苦しめられた。
世の中にはどんな事情があっても中絶は絶対悪で、覚悟のないやつは子どもを作るなといった層もいる。
そういった人たちから見たら自分はどう見えているんだろう。
同じく人工死産を経験した人のブログに
「人工死産は死産ではない。自分で決めたんだから殺人である。」
という文を見かけたとあった。
これを読んだ後に「なにも知らないくせに」と一瞬頭に血が上り、そのあとどうしようもなく悲しくなって泣いた。
その方は入院先の看護師さんから「あまりご自分を責めないであげてくださいね」と言われたらしい。
わたしにはそんな言葉をかけてくれる人いたかな。
そんな風に誰かに言われたかった。
死産してから胎盤遺残になり、治療再開まで時間がかかった。
もしかしてバチが当たったのかも、とも考えたけど、ひとつだけ胎盤遺残になってよかったと思っていることもあって。
悲しみや自責の念一色だったのが、生命の危機や子宮全摘の可能性もあると知り、さすがにそちらにも意識がいった。
どっちにしろ暗い理由だけど、東京に出戻ったり仕事復帰もして、怯えつつも実際悲しみ方向の気が紛れていた。
治療中は自然妊娠や高度治療以前で妊娠できる人が心底羨ましかった。
なんなら再び妊娠したいまでも思っていた。
一言でいうなら嫉妬や劣等感に近い。
死産してから、そこにはさらに惨めや卑屈の感情が加わった。
高度治療を経て授かっていても妊娠経過が順調なら羨ましいと思うようになって。
もしかしたら死産したことより悲しいことなんじゃないのかと思うのは、
他人の「無事に出産しました」の言葉に、一瞬冷めたような感情を持つようになったことなんじゃないだろうか。
そんな自分をすごく醜いと感じるし、ずっとずっと苦しんでいる。
夫はできた人で、「その人の悲しみや苦しみはその人にしかわからないんだから、比較する方が間違っている。
下を見ても上を見てもきりがない世界なんだから」と諭してくれる人なのに、なかなか線引きをしてしまう自分をすぐには変えられず・・・。
けれど経験や時間とともに人の感情って変わっていくものだし、今すぐには無理でも。
氷がだんだん溶けていくみたいに、このこじらせている感情が、少しずつ違うものになっていってほしい。
漫画が好きで、よくネットカフェに行ったりコミックレンタルするのだけれど。
とある漫画の書いてあった言葉にすごく救われて。
ストーリー自体は不倫サスペンスな感じで、明らかになる人間関係にハラハラどきどき、一度読み始めたら続きがすごく気になってしまう展開ばかり。
死産にはまったく関係なく。
編集社勤務の主人公が昔書いた記事、というようなシーンで使われています。
「つらい今日は日々遠ざかる」
全然大丈夫じゃない
「大丈夫」を
繰り返しながら
つらい今日は
日々遠ざかる
涙は枯れ
ふと笑っている
自分に気づいて驚く
なかなか癒えない
痛みもあるだろう
でも明日を迎えられるうちは
必ずその苦しみから
一歩ずつ遠ざかっている
そしてずっと
抱えていた「苦しみ」は
誰かと共有する時間や
愛されること
愛することによって
少しずつ
「思い出す」ものに
変わっていくと信じたい
ギルティ ~鳴かぬ蛍が身を焦がす~ 5巻
著者 丘上あい
わたしもいつか死産をこういう風に思えるようになりたいと強く思った。
どうやら求めていた言葉だったようで、これを読んでスッと心が楽になったとすら感じていて。
やっぱり、辛い経験をしてなにが一番救ってくれるかというと、わたしには時間の経過だった。
死産した息子のことを早く忘れたいわけじゃない。
再び不妊治療に取り組むこと、次の子を考えることが自分なりの供養になる。
でないといつまでも引きずってしまうという一心でここまできた。
ただ今日だけは、いまお腹の中にいる子より、息子のことを考える日で。
また来年の今日には、今日とは違った感情で、この日を迎えられるようになっていたい。